FAZER LOGIN放送室の床には、透のための場所だけが残されていた。
美月が掛けた上着の下で、細い身体は動かない。黒いパーカーの襟元から覗く首には、磁気テープの圧迫痕が幾重にも走っている。切断されたテープの端は、乾いた蛇の抜け殻のように床へ散らばっていた。
窓を打つ雨音は、厚い遮光幕に吸われて遠い。
誰も口を開かないあいだも、録音機の二つのリールだけが、停止した姿で五人を見つめていた。
「ここを出る」
悠斗が最初に沈黙を破った。
工具箱を持ち上げる手には、錆と透の血が薄く付いている。声は強かったが、扉の向こうへ視線を向けるたび、喉が不自然に上下した。
「今すぐ出口を探す。門が駄目なら裏口でも窓でもいい。この校舎のどこかに、外へ出られる場所はある」
「透を置いていくの?」
美月は遺体のそばから立たなかった。
「置いていくしかないだろ」
「一人にはできない」
「もう一人じゃないとか、そういう話をしてる場合か?」
「そういう意味じゃない!」
美月の声が鋭く跳ねた。
膝の上で握っていた手袋が、細く軋む。救命の現場で死者を見送ることには慣れているはずだった。それでも今、美月の前にいるのは患者ではない。八年前、同じ部室で机を囲み、イヤホンの片側を無言で差し出してくれた友人だった。
「警察が来るまで、現場を動かすべきじゃない。遺体も、機材も、勝手に触れない方がいい」
「警察をどうやって呼ぶ。電波はない。門も閉じた。廊下は同じ場所へ戻される。ここに残って次の仕掛けを待つつもりか」
「だからって、透を放って逃げるの?」
「死体を守って、生きてる人間が増えるのか」
悠斗の言葉が落ちた瞬間、美月の顔から色が引いた。
次の呼吸で彼女は立ち上がったが、朔が二人の間へ入った。
「やめろ」
低い声だった。
大きくないのに、悠斗も美月も動きを止めた。
「出口は探す。ただし、透をこのままにして動く前に、記録を残す。警察へ渡せる形にする」
「そんな時間があるの?」
奈々香が壁際で泣きながら言った。
化粧は涙で崩れ、頬に黒い筋ができている。割れたスマートフォンを胸へ抱き、何度も扉の外を振り返っていた。
「透は殺された。私たちも同じようにされる。次は忘れた人って言った。次は澪なんでしょ? ここにいたら、また誰か死ぬ」
澪の名が出た途端、空気が僅かに動いた。
悠斗が目を逸らし、美月は澪を見た。奈々香は自分で口にした言葉を恐れたように、さらに壁へ背を押しつける。
澪はポケットの中で濡れた赤い組紐を握った。
絹糸は冷たく、指の腹へ細い脈のような感触を返す。
「今は誰も一人にならない」
朔が言った。
「奈々香も、澪も、美月も、悠斗も。動くなら五人で動く。透の遺体は扉と窓を封じ、位置を記録する。戻れる目印も残す」
「また廊下が変わったら?」
「そのために映像を撮る」
朔は小型カメラを構えた。
壊れた扉。内側へ回された錠。折れた共通鍵。施錠された窓と鉄格子。狭い換気口。埃に残った透一人分の足跡。
一つずつ、角度を変えて撮影する。
次に透の身体へ近づき、首の圧迫痕と切断されたテープを記録した。美月へ確認を取りながら、必要以上には寄らない。透明な糸、小型モーター、壁の穴、受信機。どれにも手袋越しにしか触れず、位置をずらす前と後をカメラへ残していく。
混乱の中でも、朔の動きだけは一定だった。
澪はその背中を見ていると、荒れていた呼吸が僅かに整うのを感じた。
八年前も同じだった。
朔が先頭に立てば、暗い廊下でも足を動かせた。立ち止まれと言われれば、理由を訊く前に止まった。澄花が消えたあと、警察の車へ乗るまで、澪の肩を支えていたのも朔だった。
だから、今も信じたい。
けれど、透の声が頭から離れない。
識別音の入れ方を知っていたのは、透と朔だけ。
今夜、朔は放送室へ向かう廊下で迷わず制御盤を見つけた。消火器の位置も、扉の蝶番の構造も、まるで一度確かめたことがあるように把握していた。
映像制作の仕事をしていれば、古い建物の設備に詳しくても不思議ではない。
そう考えるたび、別の声が胸の奥で囁く。
では、なぜ八年前のカメラを持ってきたのか。
なぜ澄花の手首の組紐を、集合写真以外の映像で見たと言ったのか。
その映像は、どこにあるのか。
「澪」
名を呼ばれ、肩が揺れた。
朔が目の前に立っていた。カメラを持っていない方の手が、澪の肘へ触れかけて止まる。
「顔色が悪い」
「大丈夫」
「大丈夫な顔じゃない」
「朔は、ここを知ってた?」
問いが口から滑り落ちた。
朔の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「何を」
「放送室の場所。消火器や制御盤の位置も、迷わなかった」
「案内図を見た」
「いつ?」
「八年前。撮影前に校内図を確認した」
「覚えてたの?」
「機材を運ぶ経路は頭に残る」
澪は頷こうとした。
けれど首が動かなかった。
朔の答えには淀みがない。そのことが安心ではなく、準備された言葉のように聞こえた。
「俺を疑ってるのか」
声の温度は変わらない。
澪は組紐を握る指へ力を入れた。
「分からない」
正直に言うと、朔は数秒黙った。
「それでいい」
「怒らないの?」
「今、誰かを簡単に信じる方が危ない」
朔は透の録音機へ視線を向けた。
「俺も含めてな」
その言葉に救われたはずなのに、澪の胸には小さな棘が残った。
自分も疑えと言える人間は、本当に何も隠していないのか。
それとも、疑われることまで計算しているのか。
「これは持っていく」
朔は透のスマートフォンを透明な袋へ入れた。続いて、床へ落ちていた携帯録音機を拾う。
「待って」
澪が呼び止めた。
「どうした」
「私に届いた音声がある」
録音機の画面には、白い文字でファイル名が残っていた。
雨宮澪 忘れた八分十三秒。
再生はしていない。
触れれば何かが戻る気がした。同時に、思い出した瞬間、自分の中で辛うじて形を保っているものが壊れる気もした。
澪は朔から録音機を受け取った。
冷たい金属の角が掌へ触れる。
その瞬間、放送室の赤い光が消えた。
視界が白く弾ける。
湿った薬品の臭いが鼻を刺した。
暗い理科準備室。
澪は八年前の制服を着ていた。
閉じた木の扉へ両手をつき、何度も取っ手を回している。鍵は掛かっていないはずなのに、扉は開かない。
内側から爪で木を引っ掻く音。
『澪ちゃん!』
澄花の声だった。
泣いている。
『ここ、開けて。お願い、早く!』
「待って。今、開けるから」
高校生の澪が取っ手を引く。
木の隙間から、細い指が伸びた。爪は剥がれ、血が滲んでいる。澪はその指を掴もうとした。
誰かが背後から腕を掴んだ。
強い力で扉から引き剥がされる。
「離して!」
振り向こうとしても、顔が見えない。
男の腕。
濡れた黒い袖。
右手首に巻かれた共通の腕時計。
耳元へ低い声が落ちた。
『もう助からない』
「まだ生きてる!」
『聞こえてるのは、残った音だ』
「嘘!」
澪は暴れた。
掌が扉の縁へ滑り、ささくれた木片が深く刺さる。白い痛み。血が生命線に沿って流れる。
扉の向こうで、澄花がもう一度名を呼んだ。
『澪ちゃん、そいつを――』
声が途中で切れた。
男の手が澪の口を塞ぐ。
鼻を掠めたのは、雨の匂いと、濡れた革と、かすかな機械油の臭いだった。
視界の端で、赤い録音ランプが点灯している。
誰かが撮っている。
助けるのではなく。
ずっと。
澪は目を開けた。
膝から力が抜け、床へ崩れかける。朔が肩を支えた。
「澪」
耳元の声に、記憶の男の声が重なった。
もう助からない。
澪は反射的に朔の手を振り払った。
朔の指が空中で止まる。
「触らないで」
言ったあとで、自分の声に驚いた。
美月と悠斗がこちらを見ている。奈々香は壁際でさらに身を縮めた。
「何を思い出した」
朔が訊く。
澪は息を整えようとした。喉が震え、うまく声にならない。
「澄花が、理科準備室の中にいた。助けてって叫んでた。私は扉を開けようとして……誰かに止められた」
「誰に?」
「分からない」
悠斗が近づく。
「男だったのか」
「声は……男だった」
「何て言った」
「もう助からないって」
放送室の空気が凍りついた。
悠斗の視線が朔へ向く。
美月も同じ方向を見た。
朔は澪から一歩離れたまま、表情を変えない。
「俺の声だったか」
「分からない」
「本当に?」
奈々香が掠れた声で訊いた。
澪が振り向くと、彼女は露骨に距離を取っていた。
「どうして私に聞くの」
「だって、澪だけ記憶がない。澄花が消えたとき、最後に近くにいたのも澪だったんじゃないの?」
「奈々香」
美月が止める。
「でも、分からないままじゃ怖いよ。次は澪って言われてる。澪が狙われてるのか、それとも――」
奈々香は続く言葉を飲み込んだ。
澪自身が何かをしたのではないか。
その疑いだけが、言葉にならず五人のあいだへ残る。
掌の録音機が、勝手に振動した。
再生ボタンへ触れていない。
画面が暗くなり、名前のない新しい波形が現れる。
スピーカーから、透の声が流れた。
『この中に、八年前の映像を消した人間がいる』
奈々香が悲鳴を押し殺した。
美月は透の遺体を見た。
死者の口は閉じたまま動かない。
「今の録音に入ってたか?」
悠斗が朔へ詰め寄る。
「入っていない」
「お前が持っていた機材だろ。どうにでもできる」
「端末は今まで澪が持っていた」
「音を仕込んだのはその前だ!」
悠斗の手が朔の胸元を掴む。
「透が言ってた。識別音を知ってたのは二人だけだ。透が死んだなら、残るのはお前だろ」
朔は悠斗の手首を掴まず、ただ見下ろした。
「俺が犯人なら、透を一人で放送室へ行かせず、全員の前で止める理由はない」
「止めたふりだ」
「悠斗にも動機はある」
美月が割って入った。
「映像には、澄花を押し込んだ人間の腕時計が映ってた。あなたは今も同じ形の時計を着けてる」
「あれは全員で買った!」
「鍵を開けたのは誰かという質問にも、あなたは答えなかった」
「分からないと書いた!」
「それが嘘の一つだったかもしれない」
悠斗が美月へ向き直る。
「お前だって、澄花が怪我していたことを知っていたんだろ」
「知っていたとは言ってない」
「なら何て書いた」
美月の唇が固く閉じた。
答えない。
透の録音機から、ざらついた息が流れる。
生前の透の声より低く、遠い。
『次は――』
全員が黙った。
磁気テープが擦れる音。
誰かが水の中で息を吸う音。
『雨宮澪』
五人の視線が、澪へ集まった。
誰も近づかない。
朔だけが半歩前へ出たが、それも澪には自分を守るためなのか、逃がさないためなのか分からなかった。
録音機の画面に、午後十一時三十八分と表示される。
透の遺体を覆う上着の下で、何かが僅かに動いた。
澪は息を呑む。
次の瞬間、床へ倒れていた放送室の扉が起き上がった。
人の手も、風もない。
重い扉がゆっくりと立ち、外れた蝶番の位置へ吸い寄せられる。
「離れろ!」
朔が澪の腕を引く。
扉が枠へ戻り、激しい音を立てて閉まった。
内側のつまみが独りでに回る。
かちり。
悠斗がすぐに取っ手へ飛びついた。
「開かない!」
窓の金具も同時に跳ね上がり、施錠の位置へ落ちた。
換気口の奥で何かが這う。
五人は、透の遺体とともに放送室へ閉じ込められた。
赤い録音表示灯が点灯する。
スピーカーから、六人分の呼吸が流れ始めた。
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない
最後の鍵盤が沈んだまま、戻らなかった。 音楽室の中には、逆向きに流れる少女たちの歌声だけが残っている。 声は天井のスピーカーから降っているはずなのに、澪には壁の内側や床の下、閉ざされた楽器棚の奥からも聞こえた。吸い込まれるような発音。終わった言葉から始まり、息継ぎまで逆へ流れていく。 五人は誰も耳を塞がなかった。 スマートフォンに届いた指示が頭から離れない。 途中で耳を塞いだ人は帰れません。 たとえ人間が作った脅しだとしても、透が死んだあとでは試す気になれなかった。 奈々香は両腕を身体の脇へ押しつけるようにして立っている。耳を塞がない代わりに、指先がレインコートの布を強く掴んでいた。「何か入ってる」 朔が言った。 胸元の小型カメラを外し、録音状態を確認している。「歌以外に?」 美月が問う。「低い声。普通に聞くと潰れてる」 朔はカメラから音声だけを端末へ送り、波形を表示した。 透ほど専門的な機材ではない。それでも映像制作の現場で使う程度の処理はできるらしく、朔は周波数を分け、歌声の高い帯域を少しずつ削っていく。 少女たちの声が薄くなる。 その下から、ざらついた息のようなものが現れた。「逆向きだから分かりにくい」 朔の指が画面を滑る。「戻す」 再生方向を反転させる。 さっきまで喉へ吸い込まれていた声が、今度は自然な歌になった。 古い校歌。 少女たちの合唱。 八年前に澪が廊下で聞いたものと同じだった。 胸の奥がざわつく。 窓の外では雨が降り続いている。楽譜の散らばる床を湿気が這い、腐りかけた木材の匂いへ、古いピアノの塗料と錆の臭いが混ざっていた。 歌声の下に、別の声があった。 小さい。 ひどく近い。『鏡を見て』 澪の肩が強張る。 朔が音量を上げる。『本当の人数は、鏡に映る』 音声が途切れた。 五人は同時に、音楽室の奥を見た。 壁際に、大きな姿見が立っていた。 澪は先ほどまで意識していなかった。 高さは一メートル半ほど。木製の枠は黒ずみ、上部の装飾が半分欠けている。鏡面には斜めへ大きな亀裂が走り、蜘蛛の巣状の細い割れが右下へ広がっていた。「こんなの、あった?」 奈々香が囁く。「最初からあった」 悠斗が答える。「入ったとき、壁際に見えた」「私は見てない」「見てないだけだろ」 奈々